就学までの経過その2

しかし、この障害児学級(今は支援学級)、
長女の通う地元の小学校にはなかった。
この地域の障害児は、養護学校にいくか、もしくは
お母さんの車の送り迎えで校区外通学をしていた。
このままだと、セリカもその学校にいくことになり、
送り迎えが必要だった。
幼稚園も地元ではいけなかったのに、学校もか、と思った。
校区外通学をしているお母さんや、
センターで話をきいたりしたが
障害児学級を作ってもらうのは難しそうだった。

そのころ(96年3月)目に付いたのが
「市長への手紙」というものだった。
郵便局や図書館、市役所に、封筒がおいてあり、
市政への要望や意見などを書いておくると、担当部署にまわされ
必ず市長本人も目を通してくれから返事をくれるという制度だった。
(2001年秋からはE-mailでも受付がはじまった。)
この際何でもしてみようと思い、
「地域の○○小学校に障害児学級を新設してください。」と
手紙を書いた。
「送り迎えの負担もさることながら、地域の中で育てたい」
というようなことを 書いておくった。
返事は5月にきたが
「障害児学級を設置するには、国や府の基準で
障害児学級で教育を受けることが望ましい子どもが
5名以上おり、しかも恒常的にその数が見込めることが
条件となっているので、設置は難しい」
という答えだった。
適正就学委員会の面談で、その話もして、
「誰にお願いしたら、障害児学級を作ってもらえるんですか?」と
きいたら「その地域の学校長にお願いにいきなさい。」と言われ、
小学校にでかけていった。
校長先生は話をきいてくださり、
教育委員会の方とも相談してみます、
と言われたが、とりあえずは保留になった。

今のところの入学予定は、校区外のS小学校だったので、
幼稚園の先生に手配してもらって、その見学にも行った。
11月の就学時健診は、進路に関係なく
地元の○○小学校でうけた。

どういう流れかわからなかったが、
「○○小学校に障害児学級ができるかも?」という噂が
ちらほらと入ってくるようになったのは、1月になってからだった。
しかし、あくまでも噂。
学校も教育委員会も断定はしてくれなかった。
2月に○○小学校への入学通知がおくられてきたが、
教育委員会からわざわざ電話があって
「○○小学校入学予定と書いてありますが、
まだ確定ではありませんので。」と言われた。
事務手続の都合上、送ったらしかった。
お役所仕事だとあきれた。

3月になっても入学先の小学校が決まらなかった。
幼稚園入園前のときのように、また荒れた心境にあった。
ランドセルも、学校が決まらないと買う気にならない、と用意しなかった。
(今考えると、なんて大人気ない、と反省することしきり。)

卒園式の直前になって、ようやく教育委員会から、電話があった。
「○○小学校に障害児学級ができることが決定しましたので
セリカさんはそちらにいってください。」
誰よりも喜んでくれたのは幼稚園の先生方だった。
ぎりぎりまで決まらず、本当に心配をおかけした。
「よかったねえ!」と心からの笑顔で言ってもらえた。

新設された障害児学級の生徒は、
セリカを含めて3人で、
5人以下でできるのは画期的なことらしかった。
京都府の方針がそのようになりつつあるらしく
舞鶴市でも、人数が少なくても設置する
というようになったそうだ。(くわしくはわからない。)

その後、他の学校の障害児学級との合同の行事で、
人数が1名のクラスもあったので、各地域に障害児学級を
という流れがどんどん増えているようだ。

しかしその一方で、普通学級を希望する親からみると、
迷惑な行為になったりもしたようで
(障害児学級にはいきたくないとい考えで)
障害にまつわる話はいろいろと難しい。

6歳の誕生日 卒園前のひなまつり

左96.9.27 セリカ6歳の誕生日
右97.3.3 卒園をひかえた3月

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