国立病院での治療

今回から、国立舞鶴病院小児科(以下、は国病)で
治療をうけることになった。
脳外科から依頼されたメニューにしたがって
小児科母子センターに入院し
小児科の主治医のもと、治療が行われた。
小児科での主治医は、病気を宣告されたときにG先生。
府立病院を退院してからずいぶんたって
はじめて小児科受診したときにようやく
あのときはお世話になりました、と挨拶できた。

治療は今までと同じく3日間。
小児科医の点滴をさすのが上手なことに感動した。
(決して脳外科医をdisっているわけではありません。
小さい子への点滴や採血は本当に難しい。)
G先生は特に上手だった。
治療後は、白血球減少のため、抵抗力が落ちるので、
白血球を増やす注射G-csfもしてもらった。
(これは府立病院でも何度か注射してもらったが、
国病ではその回数がもっと頻繁だった。)
この薬がなかったころは、
白血球が自力回復するまで治療を休止しなくては
いけなかったそうで、その間にも
どんどんがん細胞が広がっていていても
どうしようもなかったそうだ。医学の進歩に感謝した。
この頃から、セリカは注射されても泣かなくなった。
まだ2歳前なのに。

国病は、府立病院とはずいぶん違ったかんじだった。
府立病院は、入院していた病棟が脳外科なので
毎日手術があったり死に瀕している患者さんが多かったりして、
常にばたばたしているという印象だった。
先生も朝早くからやってくるし、夜遅くでものぞきにこられた。
国病は、小児科で個室だったので、静かな雰囲気だった。
向かいの大部屋には、風邪やその他の病気で入院している子も
多かったが、接触することはなかったし、
感染防止のため、廊下にもあまり出なかった。
先生は1日1回のぞかれるが、治療のない日は、
あとは看護婦さんが数回やってくるのみ。
夜も7時をすぎると、面会時間も終わるので、
本当に静かなものだった。
9時ごろまでうっかりねっころがるわけにもいかなかった
府立病院と違って早々と寝るしたくにかかった。
個室にいたが、白血球の中の好中球の数によっては
外の散歩も許可されて、
病院の外をバギーで一周したりすることもあった。
(じゃあ退院できるのでは、と思われるかもしれないが、
数日おいてまた白血球が減ることもあるので、
その心配がなくなるまで、一回の治療につき、
入院期間は約1ヶ月だった。
治療中3日間とその直後以外は、のんびりとしていた。)

また、脳外科ではなかったけど
感染防止のために内服薬が処方された。
ファンギゾンという、ドロドロの世にもまずい薬だった。
化学治療をしている子は皆飲んでいたが、
他の子も軒並み苦労していた。
そのままではまったく飲んでくれず、
コーヒー牛乳にまぜて(まぜてもまずい)
毎回飲ますのにたいへんな苦労をした。
治療中以外の通院期間にも感染防止の薬が処方されて
毎週外来に通っていた。G先生にはそのときもお世話になった。

入院中は、脳外科の先生が火、木と
外来が終ってからのぞきに来てくれた。
そのときどきで先生が違ったが、
府立病院でお会いした懐かしい先生の
ときは、けっこう話こんだりもした。
入院している間に毎回、CTも1回とって退院することになっていた。

国病には、同じように化学治療をする小児ガンの子がいて
みんな個室で頑張っていた。
お母さんとも友達になって、いろいろ話をした。
小児科の化学治療は、一年間くらい入院して、
間をあけずにがんがん叩くというやりかただった。
(大量化学療法)
G-CSFを打ちながら、次々と抗がん剤投与していた。
うちのように三ヶ月に1回のんびりと治療している子はいなかった。
そのことに気がついて、「これでいいんですか?」と
きいてみたことがあるが、病気も腫瘍の性質も違うし、
脳外科と小児科ではまたやり方が違うから、とのことだった。
(どっちがいいか、とは言えない。
その子たちもセリカも今も元気なので。)

2歳のころ 

92.9.27 2歳。この日は長女の保育所の運動会だった。

髪の毛が伸びた頃 治療後はこんなふうになる

92.10.25 髪の毛が伸びてきたところ。
93.1.17 11月の治療で髪が抜け、1月になってもこんなかんじ

闘病記生育歴にもどる

戻る 次へすすむ トップへもどる